崖っ淵に鶏と本棚

おたくが崖っ淵でウロウロしているブログ

2次元オタクでフェミニストやってんの、息しづらくない?

 

 もうタイトルに尽きる。息、しづらく、ない?

 

 なにも2次元オタクを批判しようって訳じゃない。わたしも2次元オタクである。銀魂とリボーンで育ってヘタリアで情操教育を受けた。ガチガチのふじょしである。3年前までフェミニズムなんて知らなかった。そういうもんである。

 

 すこし話すまえにはっきりさせたいのが、わたしはフェミニストだけど、べつに「完璧な」わけじゃない。男だから女だからって差別されない社会、を実現できたらいいな、と思う人が増えたらいいな、と思っているだけであって、まあつまりよくわかっていないんである。

 なにが正しいとか、これは間違ってるとか判断できるほどI.Qも知識なし、突き詰めていえば「正誤」なんてあるもんかと思っているし、ただ考え続けるのをやめたくない、隣の人が暮らしやすい世界は自分も暮らしやすいはずである、そのくらいの意識でいる。

 

 生きていて、やだなと思ったことを他のたくさんの人もやだなと思ってるなら、やめた方がいいんじゃないか、と思うのがわたしの理由であると思う。それは現実世界においてだけではなく、映画や本や漫画やアニメやすべてのコンテンツにおいても同じで、娯楽であり続けたいなら、必要じゃない差別表現は取り除いたっていいじゃないかと思うんである。

 

 2次元オタクでフェミニストやっているとぶつかる言葉がある。

 

「2次元だから」

 2次元だから、漫画だから、フィクションだから、許されてもいい。この言葉にぶつかるたびに、「いや、なんぼ2次元といっても現実世界に繋がってるでしょ」という自分と、「そうなのかも」という自分が会議室で睨み合って黙り込み、結局解決に至らないのだ。

 

 2次元だから、女性が女性であることを理由に差別されたっていいんだろうか。2次元だから、女性の体をモノみたいに扱っていいんだろうか。2次元だから、2次元だから、はて2次元とはなんだろう、フィクションとは、フィクションにおける「コレクトネス」とは?

 

 スタンダップコメディで、コメディアンが差別的な発言をする。ジョークだから、いわゆるフィクションだから許されてる?そうではなくて、発言の裏側にある真意を追求すべきだ。なぜそのコメディアンがその発言をしたのか、考えておくべきだ。そういう場でもあるべきだ。

 

 この「発言の裏側の真意」というのは、全てにおいて大事なんじゃないんだろうか。

 たとえばアニメや漫画で、差別的な表現があった。その裏側に真意はあるのか?しかしそれについて考えた時に、多くの場合「どうせフィクションだから」にたどり着いていく。なんじゃそりゃ。迷宮入りって気持ちだ。

 

 この「どうせ2次元だから」の心理について、わたしには考えが及ばない。あまりにフィクションの世界が人生に近すぎたからかもしれない。

 小学生の時、盲導犬が人を救うアニメを見て祖母の家の犬を思って泣いた。幸せな犬もいるのにと思った。中学生の時、主人公が両親を亡くし、それでもなんとかやっていく小説を読んで、わたしも前を向かねばと思った。

 

 フィクションって現実と地続きだ。わたしという存在を介して2次元と3次元は繋がっている。逆に言えば、その接点しかないけれど、しかしその点は「わたしの視点そのもの」であり、つまり世界のすべてだ。

 2次元と3次元の間に挟まってる「わたし」、フィクションを最終的にジャッジするのも「わたし」、ならば「フィクションだから」と諦めてしまうの、途中で考えることを放棄するの、もう1つの世界を荒れるままに放置するようなものじゃないか。

 

 もう一度言うけれど、2次元オタクを批判したいわけではないのだ。きっとわたしにとって2次元、フィクションという存在が大きすぎるのかもしれない。

 

 フィクションにおける様式美は心地いい。もう根付いているルールや社会的規範に沿って、エンターテイメントは育っている。丸くカットされた薔薇の木を眺めているみたいだ。そうあるだけで、心地いい存在。

 

 しかしフィクションだからと諦める前に、すこし立ち止まって考えてみることが、大事なんだと思う。その丸いカットは薔薇の木を殺すかもしれない。大切な庭が荒れていくのをわかっていてそれでもぼんやり見ていることは、わたしにはできない。

 

 きっとフィクションも、インターネットも変わっていく。わたしは3年前までフェミニズムを知らなかった。そういうもんである。ならば、3年後にどれだけの人が変わっていくのか?

 だれかを傷つけたら、ごめん間違ってたわと言える世界に近づいてるはずである。コレクトネスなんて永遠に追い続けなければいけないものだけど、追いかけたいなと思う人が増えていくと思う。フィクションの世界だってそのはずだ。誰かが傷ついていて、ならば、変えればいいんじゃない?と思う人が増えていくんだと思う。

 

 ただ、今は、息がしづらい。わたしはフィクションにぞっこんの人間だ。お気に入りの庭を歩くたびに、藪に引っかかって切り傷をつくるのは嫌だ。しかし批判をすれば息苦しい。

 

 でもきっと、わたしと同じことを思っている人が今だっているはずだ。だからブログを残すことにした。3年後、わたしとインターネットがどう変わるのか、記録になるといいと思っている。